『私のオーストリア旅行』
第32話 " ウィーンを離れる日 "
汲めども尽きぬウィーンの魅力のうち、通りすがりの観光客として楽しめる所はなるべく、時間をかけなかったような印象が残っています。それは、観光ツアー以外の時間の方が、より私たちを魅了したからだと思います。ベルベデ-レ宮、ホーフブルグ、シュテファン大聖堂等等、上げればきりの無いウィーンを形作る上で無くてはならない多くのモニュメントは、昔演じられただけでなく、今現代に生きる我々が演じるドラマの舞台装置であり、しかもそれでしかないと言うのは贅沢すぎるでしょうか。
かつて、大きく華やかに開いたハプスブルグ家の文化は、「ほかの都市はアスファルトで舗装されているが、ウィーンの通りは文化で舗装されている。」と形容されるほど、凄いものです。ヨーロッパ各地をつまみ食い観光して歩く、お買い得パックツアーなどで、分かるはずは無いのかもしれませんが、行かなければもっとわからない。そこでしか分からないこと、あるいは行って初めて見える自国があります。
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ウィーンには歴史が培ってきた様々なものが存在します。そのひとつである食文化は、オーストリアが大帝国だった頃、帝国領内の各地から人と共に運ばれた郷土料理が、ウィーン風に洗練され出来上がりました。だから、例え同名の料理であっても、今ではその出身地のものと、ウィーンのものとでは、全く別物と言って良いほどに変っているそうです。京都に行くと、フランス料理も、中華料理もラーメンでさえも、山紫水明の京都のかすみの魔法がかかったように薄味で、「京都風」になってしまうようなものでしょうか。ちなみに、ウィーンと京都は姉妹都市の関係にあります。
行きずりの旅芸人一座に毛の生えたような私たちは、もちろん正式な晩餐会などはありませんから、残念ながらここで、磨きぬかれたウィーンの食文化を語る資格は、私にはありません。
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でも、あまりにも有名で、今では知らぬ人の無い『仔牛のとんかつ』は、私たちも食することが出来ました。これは、レセプションのときの団長の挨拶で、飛び出したWienerschnitzel〔ウィナーシュニッツェル〕(=ウィーンの小片)の迷訳で、「豚かつ」の主が牛であるはずは無く、挨拶の言葉のみがポツポツと聞こえる状況下、それが言葉のあやだったのかもしれませんが、我々の無遠慮な笑い声がドォーッと室内に響き渡ったことは想像に難くないと思います。
後で知ったことですが、このお料理の真髄は、あくまで薄く、大きなことで、皿からはみ出て、理想的には便座の蓋大だとか。本当でしょうか? 美味しさを追求して、第一級のものを造るとなると、材料の仔牛(ザルツブルグ産が最高だとか)は言うに及ばず、卵やパン粉などの衣から、油やラード、そして料理全体を通しての温度管理など、なかなかにうるさいものだそうです。ただ、オーストリア国内では、牛も豚も鶏も自在に材料として登場するようで、一般家庭では仔牛にこだわることなく、各家庭の台所事情によるようです。ただし料理の量の多さは、どこでもいつでも我々日本人をうならせます。抜けるような白さとスリムなボディの見目麗しいお嬢さんが、中年以降に急激に肥満してしまう。そのことにこの量が貢献していないと誰が断定できるでしょう。
もう一つ、今では日本全国どこのケーキ屋さんにも必ずある、チョコレートケーキの『ザッハートルテ』。グループの一人が、「わざわざウィーンに来て、ホテルザッハーにザッハートルテ食べに行きたいなんていうの、いけないかしらね。」というので、「ワザワザ、ウィーンに来たから、食べに行くべきなんじゃないの。」と答えたように思います。私もその名物は実は話に聞くだけでした。
今でこそ、人前で誰はばかることなく食べ物の話が出来る世の中になりましたが、その頃は、食べ物に執着するなんて、立派な人のすることではないと、立派でもない私たちも口にするのが多少気恥ずかしいのを否定できない時代でした。
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今日は、ウィーンを離れる日。ケーキにするか買い物にするか、ウィーンはあまりに広すぎて、わずかに許された自由時間にその両方の希望を満たすことは不可能です。結局私は買い物をとり、きれいなお店の並ぶマリアヒルファー通りでプチポワンのバッグやアクセサリーなど、可愛いおみやげ物を探しながら、ウィーンの街の散策を楽しみました。
特別の暑さだといわれたその夏でも、少し陽がかげると寒いくらいで、日陰はなお涼しく、随所に装飾が残る石造りの建物にもたれると、冷たいほどです。私は、自分が今ウィーンにいて、ウィーンの文化の一端に触れているその感触を体と心に刻んで、ウィーンでの残り少ない時間をいとおしんでいました。堪能するまでには至りませんでしたが…。
ウィーンについて語るべきことは多すぎます。また違う場で、述べることにしたいと思います。
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名残惜しいウィーンを離れ、郊外のユースホステルやお城の見学等のいくつかを消化しながら、アルプスの最後の尻尾とも言うべきウィーンの森を含むなだらかな丘陵地帯の続くニーダーエステライッヒ州を抜け、風光明媚なオーバーエステライッヒ州へと向かいます。疲れ果てた我々にとって、移動は丁度良い休息の時間。バスは相変わらず、美しい景色の中を走っているのに、もったいなくも皆すやすや。気がつくともう陽が傾きかけて、白い壁がほんのり色づいた夕方のフローリアン教会です。
田園地帯の大きな敷地におおらかに教会の建物が広がっています。小川にかかった小さな橋を渡り、教会に近づくと、バスから見えたよりはるかに大きく、シーンと静まり返っています。ここは、まったく観光とは無縁のようで、私たちを除いて誰一人訪れている人はいません。建物の中は天井をはじめすばらしいフレスコ画で飾られています。ここも礼拝堂が特にすばらしいのですが、撮影禁止です。もちろんチリ一つありません。廻廊の天井にも同様な絵が描かれていて、これが美術館でも、博物館でもなく、実際に今、教会として機能しているのが不思議なほどです。
そこへ足元まで届く黒の長い僧服姿もダンディな長身の牧師さんが現れ、言葉すくなに説明がありました。お話の内容がなんだったのか、何一つ思い出せないのに、なぜこの牧師さんを忘れられないのか。超ハンサムだったから、ではありません。にこやかにそして穏やかにお話の済んだ後、大股で足早に去って行く彼の黒の僧服の裾が揺れるたびチラチラと・・・。私は見てしまいました。ベルボトムのライトブルーのジーンズです。実際、牧師さんの僧服の中身なんて見たことが無いので、言いようがないのですが、やはり何か違和感を感じたのは私だけではないと思います。彼はあくまで牧師としての態度で終始し逸脱することはありませんでしたが、普段の彼はどんななのか非常に興味深いところです。これも、オーストリア人得意の新旧の文化の融合のひとつと考えていいのでしょうか。
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州都リンツを通り、教会を中心にこじんまり広がったいくつかの町、緑の牧場などを拾い読みするようにバスは走ります。相変わらず、熟睡を続けているかと思うと、次の瞬間には、今日の宿泊場所を気にすることも無く、大爆笑しながら気楽に語らう若者達を、ゆっくりとオーストリアの夕暮れが包み込んでいきます。
【お詫び】
ただいま、スキャナー不調につき画像の作成が出来ません。出来次第掲載いたします。しばらくお待ちください。