『私のオーストリア旅行』
第29話 " ホームビジット 3 "
――――― オーストリアのインテリア ―――――
「そこあるものは、全て人間の脳の中にあるものが具現化したのだ。」とあるえらい脳の学者が言っていました。今回はオーストリアのいくつかのインテリアとその印象をご紹介します。
到着した郊外のホストファミリーの家。チリ一つなくクリーンなのはどこも同じですが、まさしくここは芸術家の家。住まい方がなんとなく個性的。こじんまりして、天井も低く、この近辺でそう目立つ存在でもなさそうな、外から見れば「フツー」の家。どうやら古い家の内部を自分風に変えて住んでいるようです。
まさか、宮殿の中にあるような時代がかった調度で埋め尽くされてるなんて想像している人はいないと思いますが、その通り。簡素な真っ白の塗りこめの壁を背景に、適度な空間を置きながら、ホストの主張がその台所事情とのバランスの上に展開され、緊張感のある住空間を作っています。
そう高価そうでもない、白地に黒い直線的な模様のついた布張りのソファー。壁際には黒い木枠の縁取りがシャープな円形と直線を描くガラスのキャビネット。ホストの作品である、色々な色石で出来た卵がころがっている、テーブルのすぐそばにまで降りているダウンライトは、装飾性を払拭した、シンプルな金属の円形の傘で囲まれています。
ミスの無いように考え抜いた答案のように、すぐ庭が続いているのに、各部屋の隅には観葉植物の大鉢。その隣には、なんと巨大朝顔がついた蓄音機が、房のついた絹のテーブルクロスの掛かった小さな丸テーブルに鎮座しています。椅子はユーゲントシュティール(=young style フランスで言うアールヌーボ)。後ろの壁には、天井まで届く古い引き出しと本棚。 このコーナーはどうやらアンティークでまとめられています。
おお、向こうには、当時日本で「インテリアには、私はちょっとうるさいゾ」と来訪者にそれとなく言うために、建築関係の人の家に必ずあった、しかし、日本家屋にはちょっと大きすぎない?と思われた「イサム・ノグチ」の岐阜提灯が見えます。
階段の見える壁には、たくさんの時計と時計の部品が埋め込まれて、時を刻んでいます。もちろん棚の上にもぜんまいが露出した時計。時計が好きなのだそうです。
白い壁のスペースが空き過ぎないように、奥さんの作品らしい小さな刺繍の額が掛かっています。宮殿なら、正装した王様やお姫様の大きな肖像画があるところです。まっ白で何もない壁は彼等には耐えがたいようで、何もないことから思索をめぐらすことを好まないのでしょうか。
結構古いものを再利用したり、丁寧に使ったりしているのに、「新しい」雰囲気が漂います。ここでも新旧の融合は見事で、全く違和感がありません。威圧感の無いこだわりが随所に見られます。
◆
突然のパーティでお邪魔した州知事さんのお宅の室内には、(じつはトイレをお借りしたときこっそり覗いてみたのですが、)鹿の角がいくつも壁面に並べて飾られていました。狩猟民族であった彼等のご先祖様達が、自分のしとめた獲物の角をこれ見よがしに飾り、自分の力を誇示した名残ででもあるのでしょう。すでに述べたように、ここは庭に鹿が放し飼いにされているのですから、角はわけなく手に入りますが。
いくら私でもハイセンスとは言いかねるこの飾り方は、オーストリアではごくポピュラーなようで、この家の他、レストランやお城やいろいろな場で、この鹿の角のインテリアにお目にかかりました。でもご承知のように、角は一頭分でもかなりな場所をとるものですから、それを並べて飾ろうと思えば、それ相当の部屋の広さ、天井の高さが必要で、つまり大きな家でしか許されないインテリアです。
室内の壁は、全体に結構濃い色の模様のある壁紙が張られていて、温かみや落ち着きを感じさせます。おそらく、これはオーストリアのハイクラスの人たちが好むオーソドックスなインテリアなのでしょう。
でも、オーストリアの田舎の農家でも、手の込んだ木彫りの調度や、壁紙、そして似たような模様のカーテンが使われていましたから、その家の経済状態というより、感覚が伝統的であるかどうか、というだけなのかもしれません。
はじめにホームステイさせてもらったHugspiel家は、山間の小さな町にありました。築後20年のこの家の白色を基調とした壁紙のインテリアから受ける印象は、短い夏に高山の間から遠慮がちに差し込む太陽のように、まっすぐで、大変清潔で健康的な明るさでした。壁のあいた部分には、やはりママの手作りの可愛い刺繍の額がいくつもかけられていました。ここはちょっとカラフルでしたが。
昔のオーストリアの室内は、夜は明るすぎないのが良い、とされていたそうで、今も中高年の人々はそれが好きだそうです。小じわが目立たないという点では効果的です。
レストランで、蝋燭の光の揺らめきの下で食事をするのはロマンチックですが、我々日本人にとって「もうちょっとはっきりと見て、食べたい」感じがするのは否めません。昔、電燈が無かった頃の明るさが心地よくて、頑固に守り続ける伝統か、あるいは、電気代をケチっているに違いないと勝手に想像していますが、今まで経験したことのない、この独特の暗さが、また「なんともいえず良いなぁ〜。」とその時思ってしまった私は、まねをして自分の部屋を暗くしてボロ隠しと節電を兼ねて楽しんでいました。やって来たヨーロッパを良く知る友人が「ドイツみたいね。」と言ったのを私は「嬉しい」と思いましたが、「うっとうしい」と言いたかったのかも知れません。
部屋の明るさは、実際は電気代よりむしろ趣味の範疇だと思われます。若い人たちは、北欧のIKEAのシンプルな家具を使い、あくまで明るく、明るくと反体制的に住んでいるそうです。
私も最近は、明るい将来の為に?健全な明るさを支持しています。
◆
この家を立ち去ったのは暗くなる前でしたから、夜の室内は想像するしかないのですが、あの電気器具の数からすると、明るさに関しては、「古典派」に属するような気がします。
空港やデパートや事務所など、ビジネスの最前線ではどこでもコンピュータが活躍し、蛍光灯のクールな明るさで満たされています。「オーストリアの夜の室内は暗い」と思わせるのは、私のヨーロッパに対する郷愁かもしれません。
我々も行燈の時代をへて、現在は、月や星も見えないほどの明るさを楽しんでいます。オーストリアの多くの人々が、そんな時代を懐かしむように、暗さを維持しているのは、実は大帝国であったオーストリアを偲びつつ現実を受け入れ、そして頑固にさまざまな伝統を守ることで、自分達の中に今も脈打つ誇るべき大帝国の文化を再確認している、なんて…。ちょっと、大げさ過ぎましたね。オーストリアのインテリアについて、お開きです。